五術

季刊五術より その18

【 運命の作用(命)】     佐藤六龍著

季刊「五術」昭和56年掲載文から抜粋 後編

 

これをもう少し極端にいいますと、いかによい結婚をする命の人でも時には命に反して悪い結婚をしてしまう。また、いかに悪い結婚をする命の人でも命に反してよい結婚をしてしまう。これらはすべて経験から命を超えたものなのです。

こうしますと、何か命の占術を否定してしまうように考えられがちですがそうではありません。前述しました、正しい思考力、常識性によって、命より経験が優先するという事を知れば納得のいく考え方です。

先日、某デパートへ講演を頼まれて行った時の事です。その時にそのデパートの係長が命をみてくれというので、一緒に行った会員のH氏が子平と紫薇でみて判断しました。係長は、「実にこわいくらいすべてが当った。おどろくばかりです。ただ一つ当っていない部分があります」 ― というのです。

側で聞いていた私が、即座に、「その当っていない部分は、奥さんの事でしよう」と言いますと、これまた不思議そうに「どうしてそれがわかるのですか?たしかにそうです。家内の事です。それ以外はすべて適中しています。」とのこと。

つまり、私は経験が命に優先して、この係長は夫妻運が狂っているのだな、という事を感じとったのです。これは私が長年デパートへ運命学の講習に行っていて、そのデパートという職場の環境という経験を知っていたからです。

デパートは、女二十人(それ以上かもしれない)に対して男一人の職場です。しかも職場結婚の多い所です。男性側からいえば、命の入りこむ余地はまったくないのです。経験100%の所です。つまり男の命における結婚の吉凶に関係なく、職場における女性との縁で結婚がきまるのです。

そこには男性からの趣味嗜好は入りますが、命はまったく関係なく配偶者というのがきまってしまうのです。

経験が命に優先するというのは非常に大切な事です。かつてこんな例もありました。ある人が四十代の時、五十代に衰運がくるというのです。その人は命を研究していたのですが、衰運という事にたえられなくなり、日本の偽の仙道にこってしまい、自分の土地や家を手離し、自分独りになり、富士の山麓に小屋をたて、犬と小動物だけの仙道生活に入りました。

三年後に降りて来て言うに、遁甲でみて大凶方にいったのになんの凶兆も出ない、遁甲や命はインチキだというのです。これも正しい思考力がまったく欠けているからこうした低能的な発想になるのです。

あらゆる事の吉凶は、社会生活をしていてこそ初めて、そこの摩擦から生じるのであり、大自然の中で犬と暮らしている独り者に、病気以外の凶兆が、いかに大凶方でいってもおこらないのは常識なのです。しかし、この常識が占術をやる人にはないのです。

ですから、高野山や二十年の行に入る人は、病気以外の凶兆はいかに大凶方を使用してもおこり得ないのです。そして、どんな大凶方でいっても、仮に地位名声を失う大凶方で高野山へ行っても、病気にさえならなければ、すばらしい大きな地位をもらえるのです。二十年という人のやらない行をやった事に対してその宗門が地位をくれますから、地位失墜の大凶方で行ってももらえるのです。

しかも、山に一人入るのですから、凶方の作用というのは俗界におきるのであって、一人の世界には病気以外はおきませんから、まったく方位作用はありません。

このように、命も占術も経験もーつの大きな集団生活の中にあって初めて吉凶がおき、しかもそれは経験なり常識なりが、命や占術より優先するという事を忘れてはなりません。