五術

季刊五術より その12

【五術における六親】  佐藤六龍著

(会報誌:季刊「五術」平成18年12月号掲載文から抜粋 後編)

 

中国の命書を見ていますと、何歳の凶運に親に死にわかれた。何歳の凶運で子が死んだ――とありますが、これはすべて前述の六親のあらわす事象の定義を理解していない誤りなのです。この事について透派の張耀文師は、「五術家は常識のないバカばかりだから、六親の生死吉凶を自己の命式で云々している、少し考えればそんな事はあり得ない、もしそれが真実だとしたら、その六親の命は何をあらわすのだ!」と言っていました。

まったくそのとおりです。ただ世の中の生活上では、親が死亡して学校をやめなければならなかった。夫が死亡してその日から生活に困った、――という、生活に大変化があるため、自己の 命式上で六親吉凶があるように考えるのです。しかしその変化は命の変化ではなく、常識上の生活の変化と考えねばなりません。

張師が言われたように、もし夫が死亡して生活に困った妻の命式に、夫の凶事があらわれるとしたら、いったい、その夫の命には何が出ているのだ、ということです。

もう一度言いなおしましょう。ある命式に出ている六親というのは、その人(その命式)からみた六親、その人(その命式)がうける感じの六親、というにすぎないのです。

日支(配偶者)が喜神でしたら、一言ではよい夫(又は、妻)と判断しています。がそれは、その夫なり妻なりがみた配偶者、その夫なり妻なりが肌で感じた配偶者、なのです。本当によい(吉運)配偶者なのかどうかは、その配偶者の命式をみなければなりません。

自分からみたらよい夫(その妻の日支が喜神)でも、他人がみたら、いやな男だ!かもしれません。これを、アバタもエクボ、と昔から言っているのです。

すべて六親というのは、こういう事です。

近世中国推命の大家と言われる袁樹珊が、李鴻章の命式が曲直格(透派では従旺)なのに、金の大運に西太后の引き立てがあり、順調に過ごしたのを、「金の凶運ゆえ、親が死んだ」と書いているのを、張耀文師が、小生に話してくれました。

「困っ たものだ。こんな大家と言われる人でも、このような非常識な事を言うのだから! テイノウとしか言いようがない。李鴻章の命式に親の死が出てたまるか、 じゃあ親の命式は何をあらわすんだ。バカバカしい。李鴻章が金の大運でも無事に過ごせたのは、西太后の男メカケだからだよ。あの権力者にかわいがられた ら、凶運なんか毛一厘の作用もしないよ。こんな常識もわからないのだから、易者はいやになるよ!」この時、小生は「凶運だったら西太后から引き立てを受け られないはずだが?」とやったのです。そうしますと、張師は、「佐藤先生も袁樹珊と同じバカだなあ! 引き立てを受ける事と人から可愛がられる事は別だ よ。まして男女の感情のこもった関係は趣味嗜好の範囲で、吉凶成敗とは別だよ。引き立て援助は吉凶、好き嫌いは趣味、まったく別個のもの。李鴻章が凶運で も西太后からの引き立ては、吉凶ではなく趣味の範疇、引き立て、と言うから凶運云々が出てくるのだが、愛された(性云々とは別)と言えば、好き嫌いの趣味 範囲で吉凶とは別さ、こんな事もわからないのでは……」と言われてしまいました。

 

占術上では、この六親や親族を云々する時は、こうした常識上のことを十分に考慮することが大切です

 

 

四柱推命象意集錦と子平窮通律

陽政道氏の講座案内です。

詳細は、陽氏のブログ「陽政道の五術的日常」をご覧ください。

1.「汚玉不清 喪尽天良」
日主辛金の隣に忌神の己土がある。自分のために平気で人を
裏切る人。性格に不純なところがある。
忌神印の作用で、食傷を剋す為に、結果的に財源を断つことに
なる。
全体で64章の4字熟語を説明していきます。

2.文天祥は、南宋末期の宰相、元と抗戦して処刑された人です。
 文武朝官不見人
 天機已盡有忠臣 
 祥丁吉甲來庚忌
 敗在従身格不純
 この人の命式は敗の命式であると判断しています。

季刊五術より その11

【五術における六親】  佐藤六龍著
(会報誌:季刊「五術」平成18年12月号掲載文から抜粋 前篇)

「六親」は、五術上では子平術の変通星、六壬・五行易の虚星(五類)をさしますが、一般では親族の意にとって使用しています。両親・兄弟姉妹・子女・配偶者を六親と言います。ここでは、一般の親族の意です。
中国は昔から、この六親を大切にする風習があり、特に先祖を祭る、家を守るという考えから、男の子を重要視します。そこから、命が占術では、この六親をみる方法が必ず入っています。しかし、これがしっかりした定義なり、占術上の原則なりが明確にされていないのです。さらに困った事は、中国はいざ知らず日本で は、まったく家族制度というものが、昔にくらべて崩壊してしまっています。故に、よほどしっかりした常識をもって、この五術上の六親を考えないといけません。
最近にいたっては、この六親の障害事件が数多くあります。子は親を、親は子を、夫は妻を、妻は夫を――という現状です。
子供の障害事件の場合、障害された子、した者、その子の親の三者の運の吉凶。夫が妻を殺害した時、夫の運、妻の運――を云々しています。

いったい六親のこうした吉凶の事象は、命の上ではどうか?――ということです。
まず、ここではっきり言えることは、「六親の吉凶、良悪は命には出ない」ということです。つまり、ある命式をみた時に、そこに出ている六親は、六親そのものの吉凶良悪ではない、ということなのです。そこに出ているのは、「六親とその命式の人との縁の厚薄のみ」なのです。
ですから、六親の運の吉凶は一切出てないのです。命の占術で、子女運がよいということは、頭のよい子、出来のよい子、というのではなく、子女縁がある、ということですから、拡大解釈して、自分から(命式の人)見てよく見える子、頭がよいと感じられる子、というのはありますが、本当によい子なのか、本当に頭の よい子なのかは、その子の命を見なければわからないのです。

これは、両親でも夫妻でも兄弟姉妹でも同じです。
それを一般の人は勘ちがいしているのです。その勘ちがいから、親が死んだ。子が殺された、すべて自分の運の凶さのように思っているのです。親が死亡するのは親の命で あって、子供の命式に親の死が出たら大変です。子供が殺された場合、殺される事が運の凶さかどうかは、別にして、親の命式には何の関係もないのです。

子平占卜とは

陽政道氏が、教室で7月から始める子平占卜とは、どんな占いか、ざっと紹介します。

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A社に就職してよいかを占う。

課式体神は日主辛、課式用神は丁
占的体神は日主辛、占的用神は不透の丙
課式体神と占的体神が一致しているので、就職には問題はない。
課式用神と占的用神が一致しないので、就職するべき時ではない。
占的用神の丙火は喜神ですが、課式内にないので、納得できる条件では就職できない。
たとえ、良い条件で入れたとしても、いろいろ問題が起きてくる。

色々な占的に関しての見方を学んでいきます。

季刊五術より その10

【命とトの本質的差】     佐藤六龍著

 (季刊「五術」昭和60年12月号掲載文から抜粋 後編)

 

3、トの場合、占的占事によってトの占術の理論法則を、前述の三点を参考にして設定しなおさなければなりません。

占的占時の吉なり凶なりの条件(状態というべきか?)とトの占術の吉凶の条件が本当に一致しているか、どうかということです。

 

吉凶はたんに二者択一のようにみえても、その確率が極端にちがう場合があります。例えば、商売が繁昌するのを吉、繁昌しないのを凶、受験に受かるのが吉、不合格が凶、どちらも1/2ですが、その条件の度合いは大変にちがいます。

つまり、入学試験の場合は吉の条件(占術の理論、法則)を厳重にしぼって、すこしの凶もないのを吉としなればなりませんし、商売繁昌に吉は、吉と凶の条件をくらべて、結果的に吉になっていればよいということになります。

五行易の原則に、吉と凶の条件は、寡は衆に敵せず、というのがあり、吉なり凶なりの条件は多いほうのを少いほうより用いる、その判断の結論は衆である、という意です。

しかし、これを用いられるのは前述の三点を十分にのみこんだ人のみが使えるのであって、すべての占的占事に用いることはできません。

商売の吉凶いかんの占には用いられますが、合格いかんには用いられません。身体安否占には、この吉の条件と凶の条件の多少できめる方法は用いられますが、飛行機が落ちるか?という安否占には絶対に用いられません。

ジャンボ機は落ちない、という設定のもとに作られ、飛行しているのですから、それが落ちる凶条件というものは、たんに吉条件と凶条件の多少ぐらいできめられるものではないのです。

ようするに、占的占事の吉なり凶なりのおこりうる条件と、トの占術の吉凶条件が一致、または似かよっていなければならないということでしょう。

象意のことになりますが、トには難易と苦楽を断ずる度あいが非常に不明瞭です。占卜の六壬と断易は、吉の条件、凶の条件の多少で結論を出しますから、その多少で難易なり苦楽なりは判断できないという事はすぐ了解できることと思います。

ところが命になりますと、象意としての難易や苦楽が実に明瞭にでるように設定されています。特に子平などは、苦命楽命・横財・直財・楽財・苦財などとわけられるという特徴もあります。

以上、命とトの本質的なちがいに留意して五術を応用するのが正しい占術究明といえるでしょう。

 

季刊五術より その9

【命とトの本質的差】     佐藤六龍著

 (季刊「五術」昭和60年12月号掲載文から抜粋 前篇)

 

五術の中で「ト」と「命」は非常に占術的性格がちがうものです。このちがいを十分に知っていないと、命・トの使いわけができません。

もちろん、占事と占的が命とトではちがうのは当然ですが、そうした表面的なものではなく、占術の本質としてのちがいがあるという点です。

第一に、占事占的における吉凶と良悪の定義が、命と卜では根本的にちがうという点です。

第二に、占事占的における難易と苦楽の度合いが、命でははっきりあらわれますが、トではまったくあらわれないという点です。

第三に、命は、個人差を中心に考えられる占術ですが、トは一般的な平均の感覚で占術をとらえているという点です。

以上の三点が、「命」と「ト」における大きなちがいです。これらは非常に重要な事なのですが、案外、見すごされています。

第一の定義のちがいは、第二と第三に関連があります。つまり占的占事の度合いがトでははっきりしない上に、第三の一般的な感覚から吉凶良悪をとらえるため、命とは非常にちがってくるのです。

例えば、求財占の命の場合、その人の生活環境に応じた財の吉凶良悪が出ますが、トはそうした事とはまったく関係なく求財占における吉凶良悪があらわれるのが卜です。

一千万の投資をして、一千五十万の収入を得る人に、財富の命とは絶対に出ません。この人は一千万の財を動かす生活環境があり、それによって利(財運)があるとしたら、少なくとも一千三百万以上の収入がある場合に、初めて財富の命と出るのです。

ところがトでは、一千万投資した仕事で、一千五十万の収入があっても、利あり、と出るのが普通です。(極端な例)つまり、定義的にいえば、一円でも利があれば卜では吉、一円の利であれば命では凶、という事になります。そして第二の度合い、つまり利益の度合い、幅がトでは出ないという事です。さらに第三の個人を基本にしているから一千万の投資可能の人に五十万の利では吉とはいわないし、一般的、平均的金銭の感覚から五十万をいえば、吉であり利であるとするのです。

以上のような事を具体的に実占上はどう使いわけるか、といいますと、占的占事のいかんを問わず、次のようになります。

1、トをみる場合、占的占事の吉凶・良悪を、占前に具体的に設定し、こまかくその吉凶良悪の定義づけをして、それが可能か不可能かをトに問うことです。五行易や六壬で、占的を細かくしぼり、時間設定をきちんとしなければならない、というのは、ここらあたりを指すのです。同じ卜でも遁甲方位においては、その吉凶良悪の応期をきちんとすべきです。

遁甲において、応期に出た吉兆凶兆以外は、偶発作用である、として切り捨てるぐらいの見識は持っていてほしいものです。

2、命の場合、占的占事の吉凶良悪は、定義と同時に高度の常識性が要求されます。さらにその人の生活環境と命の関係、命の定義とその人の現状との関係、を十分に見きわめるべきです。

例えば、富命でなくても、開業医の子息は、一般人の富命と同じかそれ以上の富命的生活を送っています。開業医の子息という生活環境と命、次に命における財とは自己が稼ぎ出すものをいう、という命の定義と医師の子供という現状、― をみないと、現代日本における医師の子息の命理判断は、狂ってしまいます。

貧命の医師の子息がたくさんいますが、その現状は豪勢をきわめたもので、今回ここで説いた点を頭に入れておかないと誤断になります。

また、土地などの売買による一時的な財富の人なども前述の医師の子息と同じで、不適中となります。

(続く)

季刊五術より その8

四柱推命の象意(命)― 財・官・印について ―

季刊「五術」・昭和55年9月5日号掲載文から その4

 

比肩というのは、日主とおなじ陰陽、おなじ五行にあたる干です。

劫財というのは、正財を剋す干です。

食神というのは、正財を生する干です。

傷官というのは、正官を剋す干です。

偏財というのは、日主が干合せずに剋す干です。

七殺というのは、日主を干合せずに剋す干です。

倒食というのは、食神を干合せずに剋す干です。

こういうことを念頭において考えたら、財、官、印をベースにして象意が一つ一つわかってきます。

比肩は日主とまったく同じ干ですが助けあわない方が大部分であり、乙木、丙火、丁火、戊土、己土、庚金、辛金、壬水、癸永はスタンダードな関係です。例外として甲木と甲木は助けあい、象意的にみると、むしろ印綬に似ております。

比肩の象意は、助けられたり助けたりしない関係だから、象意のポイントは、落ちつきです。ですから、得力や得制である比肩は、落ちつきがあるということです。そして、適度の関心をもちながら、お節介はしないということです。

不足の比肩は、ひっこみ思案、無関心などです。

大過の比肩は、猪突猛進、お節介などです。

劫財は正財をおさえる星ですから、いい劫財は、大過の正財をおさえる象意になります。

大過の劫財は、不足の正財とおなじ意味になります。

不足の劫財は、大過の正財とおなじ意味になります。

食神は正財を助けて生ずる星ですから、ちょうどいい食神とちょうどいい正財はほとんど似ております。しかし、正財のような力のイメージでなく、むしろ、柔で剛を制するような感じです。

食神が得力あるいは得制のばあいは、柔で剛を制する才能、やさ

しさ、抱擁力、親切、めんどう見のよさなどの象意があります。

不足の食神は不足の正財とほぼ似ており、頑固、保守、ケチ、自

分のカラにとじこもるなどの象意をもちます。

大過の食神は大過の正財とほば似ており、親切の押し売り、お節

介などの象意になります。

似ているようでも、正財と食神には、はっきりした区別があります。

正財は物質的で、力で迫り、剛で剛を制します。つまり、根本は

剋です。

食神は精神的で、心で迫り、柔で剛を制します。つまり、根本は

生です。

傷官は正官を制することから、その象意は、正官をベースにして

考えたらいいのです。つまり、ちょうどいい傷官は、ちょうどいい正官と似ており、ちがうところは、傷官はやや切れもので、鋭い感じがします。そして、正官に比べて、はるかに積極的です。韋千里はいい傷官に対して、英明鋭利という言葉を使っています。

不足の傷官は、大過の正官を考えたらいいのであり、消極的で無

関心で、やる気がなくて臆病です。

大過の傷官は、不足の正官を考えたらいいのであり、積極的で出

しゃばりで、表現欲がすごいものです。

偏財はほとんど正財と区別する必要がなく、ただ財の偏であるものということです。質がやや落ちた財だと考えたら、大体あてはまります。

七殺は日主をおさえる干であり、得制や得力の場合、その象意は

ほとんど正官とおなじであり、すこし質が落ちる程度です。

しかし、欠点となると、正官にくらべてどぎつくなります。

不足の七殺は、大過の比肩をひどくしたものであり、乱暴、むちゃくちゃの一言につきます。

大過の七殺は、不足の比肩をひどくしたものであり、低能、無能、

愚図、臆病というようになります。

倒食は食神をおさえる干ですから、ちょうどいい倒食は、ちょうどいい食神とほぼ似ており、その柔かさはありませんが、やり手という面ではそっくりです。

食神は与えてもらう、負けて勝つというようなよさですが、倒食ははじめから勝ち、はじめからもらうよさです。

不足の倒食は大過の食神と似たところがあり、お人好し、おめで

たいというような象意です。

大過の倒食は不足の食神と似たところがあり、ずるい、真心がな

い、要領だけというようになります。

以上が変通星のもっとも基本的な考えかたであり、これらの象意を命式のいろいろな判断に用いたら、決して紫薇斗数、六壬

理、奇門命理などに此べて、象意の面で劣ることがありません。

その活用法は、後日さらに稿を改めることにして、本稿はこの程

度でしめきらせていただきますが、要はただ一言。変通星の象意

は、財、官、印を基本に法則的に展開されでいることを認識すれ

ば、子平の象意というものは、決しでむずかしいものではないのです。